守るチカラ


  写真は、自宅の食卓で使用している椅子です。10年前、ある和食器店の展示品になっていた4脚を閉店を機に譲り受けました。半世紀以上前にデンマークで作られたものです。座面を何回も張り替えながら、今でも現役で使用しています。

 突然の衆議院解散で、慌てふためいている野党、、、どこから見ても「イス取りゲーム」にしか見えない今回の総選挙、混乱を極めている国政の行方はどうなってしまうのでしょうか。



 
  アメリカで痛ましい発砲事件が起きました。世界随一の歓楽の街、ラスベガスで起きたということ、多くの人が集まる野外イベントの会場にめがけてホテルの高層階から銃を乱射したということ、すべてにおいて衝撃で言葉もありません。
 銃社会への警鐘は、あのマイケール・ムーア監督の『Bowling for Columbine』で、アメリカ独特の国民気質(すぐそこにある恐怖)が背景にあることを問題として取り上げていますが、アメリカで暮らす人たちにとって、身を守るべきために認められた銃の所持が、本来の目的を果たさずに『窮鼠猫を噛む』ための道具としてしか機能していないことを理解すべき時が来たのだと思います。
  アメリカ人の大半を占めるキリスト教の「汝の隣人を愛せよ」が、銃社会によって「汝の隣人に警戒せよ」に変わってしまっているのです。

 世界情勢はなんともきな臭い状況で、戦争を放棄している日本でさえ、その基盤が揺るがされつつあります。我が国のリーダーが「平和は力で達成すべき」と断言しているのですから、何が起きても不思議がありません。つまり、私たちの国も(すぐそこにある恐怖)の中に、身を置かざるを得ない世の中になりつつあることを危懼せねばなりません。

 話を変えましょう。私がかつて独り暮らしをしていたときのことです。住まいはいずれも都心だったにもかかわらず、少しだけ静かな場所を選んだこともあり、仕事帰りで夜中に一人で歩いていると、不審者に遭遇したことが何回かありました。(ここで書くのが憚られる破廉恥な類の人など)、だいたいは、遠くに姿が見えた時、または、背後からの足音に違和感を感じて、早々に警戒したので、賑やかな道へ回避したり、足早にほかの人の近くに寄ったりして身の安全を確保しました。

 今、街を歩いていると、時々人にぶつかりそうになります。反対方向から人が歩いているにもかかわらず、まったくその気配を感じずに突き進んでくる人の多くは、(ながらスマホ)の人たちです。
 下を向きながらイヤホンで大音量を聞きながら街を歩いています。しかも、小さなお子さんを連れているのに手もつながず、(ながら)をしていて、危ない場所へ走っていこうとする幼いお子さんを何度か静止したことがあります。

 見えないものを感じる力は、(ながら)では困難です。自分の身の危険はもちろん、大切なお子さんの命を守るためにも、周囲を感じる集中力は外出中においては不可欠です。 また、洪水のように溢れ出る情報の中に身を置いても、自分の視界が遮られます。外的危機管理はもちろん、自己を内観する時にも集中することが必要ですが、スマホを片手にした生活でそのような時間を持つことは可能でしょうか。。

 自分の身を守ること、自分の心を守ること、どれも集中が必要だと思います。
 すぐそこにある恐怖は、自らの感じ取るチカラで克服できるものと信じたい。まだ日本は、それくらいで済むような国であってほしい。。。そう願っています。

 
 
 

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