食のための時間

 お彼岸はとうに過ぎてしまいましたが、秋分の日を境にあちらこちらで見かける曼殊沙華は、いつ見ても美しく、冬に向けて鎮まる命のエネルギーが最後の輝きを見せる紅葉の季節に先駆けて、大地を真っ赤に染めてみせます。

 温暖化の影響なのか、ここ数年の気候は、それまでの日本の季節感とは違い、穏やかに季節がバトンタッチされるのではなく、大雨や嵐を境に一気にシフトするように思います。にもかかわらず、曼殊沙華は、毎年、秋のお彼岸の時期に一気に花を咲かせるのはなぜか・・・。というクイズをあるテレビ番組で観たことがあります。
 曼殊沙華(ヒガンバナ)の開花は、気温や湿度ではなく、日照時間に影響されているとのこと。つまり、秋のお彼岸=秋分の日の日照時間によるものだということです。この話を聞いて、私の長年の疑問が解決しました。
 いつ、どんな年も、秋のお彼岸にお墓参りに行くと、かならず曼殊沙華が咲いています。まだ夏の名残のある暑い日も、秋雨前線で肌寒く湿った日も、どんな陽気でも同じ時期に花を咲かせる・・・。まるで約束を果たすかのように、いつも変わらずに、美しい赤色で私たちを楽しませてくれます。



 秋と言えば、1年の中で最もおいしい食べ物の誘惑に悩まされる季節です。今年は、大好物の栗を沢山頂戴しました。さっそく、栗ご飯を作りましたが、ここで悩まされるのが「栗の皮むき」。生の栗の皮をむくのはとても根気がいる作業です。
 私は小さな果物ナイフを用いて、まずは外側の厚い鬼皮を剥ぎ取り、ひと休みしてから、渋皮を丁寧に剥きます。時間にして1時間はかかります。
 栗の皮をむき終えると、1日の仕事を終えたような気分になるほど、疲労困憊します。それは、南瓜を切り分けるときと同様に、(誤ってナイフで手を切らないように)気を付けながら作業しなくてはならないからです。無心ではできず、常に注意を払っていなければなりません。

 これだけの苦労をかけて作った栗ご飯は我ながら絶品で、ホクホクとしたほんのり甘い栗が、口の中に広がった時の幸福感は、それまでの苦労を忘れさせてくれます。笑

 ここ数年、料理の世界では(時短)や(簡単)がキーワードになっていて、料理本の仕事をさせていただいた時も、編集担当の方から「できるだけ簡単に、それでいておいしく」がレシピの基本としてリクエストされます。
 確かに、日ごろは仕事で忙しい人が多く、料理に時間をかけられないという背景もあるでしょう。でも、時々はこうした手間のかかる料理をすると、食べることに向き合えるよい時間になります。

 簡単便利が当たり前の世の中になり、現代人の私たちは、昔の人たちに比べて、自由に使える時間が非常に増えたと思いたいところですが、実際には、時間に追われていると感じている人が少なくありません。
 生きるための基本である食。この食のために時間と労力を費やすということは、現代に逆行しているように思う人も多いかと思いますが、わたしはあえて逆行してみたいと思います。肉でも野菜でも、私たちの口に入るまでには、時間と労力が注がれてきたわけですから、最後の最後まで手間をかけてみると、食べることの大切さを名実ともに味わえると思うからです。

 会社の仕事に時間をかけたことが手柄になる環境より、目の前にある食卓の準備に時間をかけたことが喜びとなる日々を送りたい。
 ・・・とはいえ、わたしも、時々ですけれど。そんな願望があります。
 そして、先日、ようやく「栗むきハサミ」を買いました。

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