時の流れとともに

 写真は都内某キャンパスにある、広い構内を結ぶごくありふれた階段です。映画『君の名は』のラストで瀧と三葉が再開した階段に雰囲気が似ていて、ふとカメラに収めてしまいました。手摺の影の連続性が美しく、恒久なる時空を想念します。

 人は時間の経過を、わが身の成長や老いで感じるものだと思います。もし、自分の身体に何の変化もなければ、「あぁ、、、時が過ぎたなぁ~」としみじみ思うことはあまりないでしょう。
 つまり、歳をとるということは、時間が流れていることを自覚するために起きる身体の変化なのかもしれません。 もし、成長が止まり歳を重ねても外見がほとんど変化しないとしたら、これほどまでに自分に与えられた時間を尊いと思わないでしょう。

 加齢による変化は、わが身に残された時間をはっきりと自覚させてくれます。そして、残りの時間をどのように過ごすかの問いを投げかけ、生きて活動するためのモチベーションを与えてくれます。



 私が2歳になるころまで暮らしていた家の近くには小さな浅間神社があり、よく散歩に連れて行ってもらいました。境内にある富士塚には所々に石碑があり、その間を抜けながら頂上まで登った遠い記憶が、今でも私をワクワクさせてくれます。2歳になる前のよちよち歩きだったころの記憶が、まだ残っているのですから、よほど楽しかったのでしょう。
 今、その地を訪ねると、小さな塚があるだけのなんてことのない場所として私の目に映ります。塚の頂上の石碑は当時の記憶とほぼ同じですが、全体の景色は、ごく普通のどこにでもある小さな浅間神社です。ところが、記憶の糸を辿ると、この場所は、神秘に満ちた冒険ワールドとして私の心の中に広がるのです。

 そこに在るものは変わらなくても、その場に立つ私が変われば景色はすっかり変わってしまいます。つまり、世の中がどのようであっても、見る側、立ちあう側の人間が、景色のいろどりを決めているのです。

 周りが変わったのではなく、自分が変わったのです。

 人間関係も同様、縁が深くなる人もあれば、遠くなる人もいます。一時期、密度の濃い関係であっても、時が経ち、それぞれの環境が変われば、少しずつ関係性は変化していきます。疎遠になる人もいるでしょう。でも、それぞれの居場所が少しずつ変わっていったと思えば、何ら不思議はありません。そのように時は流れているのですから。

 人は自分の視点からしか事実を把握できませんから、どうしても主観的に判断した物事を真実としてとらえがちです。けれども、真実は、一人ひとりの中にあり、それが全て同じとは限りません。相手に同意を求めたり、強制するものではないのです。
 
 ですから、出会いがあれば別れがある、別れがあれば出会いがある・・・ということは、当たり前のことですし、一時期、意気投合し、思いを通わせても、それは永遠ではありません。時間の中に身を置く私たちは、変化しながら進んでいくものなのです。
 過ぎてしまった過去に思いを馳せ、恋しがっても仕方ありません。過去に見た景色は、当時見ていた自分にとっての事実であり、現在の自分、そして誰かの事実ではないのですから。


 

 
 

コメント

人気の投稿