思秋期

 私のカラオケ十八番、岩崎宏美さんの『思秋期』は、18歳の少女の過ぎ去った思い出と純愛をいと惜しむ(愛おしむ)歌です。18歳と言えば青春真っ只中。『青春』は春、しかも(まだ青い)春なのだけれども、切ない思いが募り、ふと秋を思い浮かべてしまう・・・そんな心情でしょうか。
 人生を季節の移ろいに例えるならば、 まだ春の只中で、夏も、秋も、冬も、これからだからこそ、切ない恋心は秋(なのではないか)と思ってしまう、それこそが若さだなと今の私には憧れさえ抱きます、、そんな歳です。(笑
 勢いのままで時を過ごしたころを経て、それぞれの経験や生き方が葉の色となり、さまざまな彩を見せてくれる紅葉の時期こそ、思秋期という名が合います。その思秋期真っ只中となった私が、乙女心の『思秋期』を歌い上げます。こうなると歌の最後の、「・・・思う、秋の日~」が、なんと切実に!切ないことか・・・。
 
 長いようで短い、短いようで長い人生は、けして同じ日は1度となく、ひたすら一方通行の道を歩むもののように感じます。後戻りをしているようでも、けっして逆行はしていません。
 季節の移ろいと似ています。




 私の両親は、今のところ健在ですが、テレビでしばしば取り上げられている「終活」に影響され、時間を持て余していることもあり、断捨離活動に励んでいます。それでも、なかなか捨てきれないものがあるようで、その中に、私の小学校時代の交換日記や文集がありました。
 先日、何の気なしに、書棚から日記や分厚い文集を手に取ってみました。 書いた本人でさえ、内容はすっかり忘れてしまっていますから、それは真新しい読み物に変わり、私は大いに楽しませてもらいました。

 分厚い文集は、小学校を卒業する前に作った6年1組のものでした。6年1組での時間は、私の小学校生活の中で最も楽しかったと記憶していますが、きっと担任の先生も思い入れのあるクラスだったのでしょう。一人ひとりの作文集から、学級新聞から、将来の夢から、友達同士の互いの印象から、似顔絵から、、、コンテンツが非常に充実しています。嵩張るわら半紙がしっかり無線綴じされていて、まるで電話帳のようです。

 10代から100歳まで、10年ごとに「そうなってあるであろう」将来を予想して書いたページがあり、私の20代は、「薬剤師になって不老不死の薬を発明する」と書いてありました。なんとまあ、子供が考えそうな夢だこと。半世紀近く生きてから、幼いころの自分が描いていた未来を読むと、恥ずかしくもあり無邪気な頃の自分を懐かしくもあり複雑な心境になります。
 薬剤師にはなりませんでしたが、大学卒業後は製薬会社に就職して、不老不死の薬は発明できませんでしたが、そこそこの健康オタクで健康寿命を伸ばすことに励んでいる自分がいます。当たらずとも遠からずという人生を歩んでいるようで、そういう部分も面白いと思います。

 40代では、「子供が生まれて、子育てで頭を痛めている」と、子供のくせに現実的な未来が書いてありました。これは、当たっています。(笑  きっと、私自身が、親の頭を痛め(させた)子供だったからです、きっと。
 
 当時の未来にいるであろう今の私が、過去に描いた未来を読んでいると思うと、書き残すという作業は、長年にわたって楽しめるものなのですね。
 ~モノより思い出~
 というキャッチコピーをどこかのテレビコマーシャルで聞いたことがありますが、物は捨てられても、思い出は捨てきることはできません。そして、思いが綴られたものは、なかなか捨てられません。
 この古びた文集を、自分が歩いてきた道の所々に置いてきた道標の一つのように思うと、どんな高価な品物よりも、愛おしく、手放しがたいものになります。
 今からの私は、自らの足元に何を置いていくのでしょうか。

 そんなことを考える思秋期です。

 

 
 

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