哲学すること

 写真は、初夏に訪れた静岡県浜松市内にある龍澤寺です。今年度放映中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の舞台ということで、たくさんの人が訪れていました。
 
 井伊家の菩提寺である龍潭寺。1573年に武田軍の侵攻により焼失したそうですが、すぐに再建復興が施され、翌年には第23代当主井伊直親(亀乃丞)の13回忌が執り行われました。写真の本堂は、江戸時代前期(1676年)、27代当主井伊直興(彦根4代目)により寄進されたもので、平和の世となった江戸時代に建てられたということもあり、境内はドラマで描かれている戦国時代の争乱は感じられません。

  『おんな城主 直虎』の第33話では、小野政次の壮絶な死に、ショックを受けた人が多かったのではないでしょうか。かく言う私も、政次ロスというよりも、政次ショックからまだ癒えていません。亀の丞(井伊直親)の非業の死をはじめ、多くの人たちの無念を背負いながら、井伊家は守り抜かれました。世界各国、どこにおいても一族の血を守るための争いや受難が避けられないということは、人間の業なのでしょうか。そして、いつの時代も、生きていく中で非情や不条理から逃れきることは難く、誠実に生きようとすればするほど無念ばかりが募るのも、この世の常なのでしょうか・・・。

 
 2年前、諸子百家の思想に興味を持ち、孔子や荘子、孟子について書かれた本をいろいろと読みましたが、難解な部分が非常に多く、私の思考レベルで理解するにはとてもとても時間がかかりました。かの時代の国盗りと分断、統一を繰り返した混沌とした世の中は、どこか、先行き不透明な無定見のグローバリズムに振り回されている現代にも似ている気がします。
 
 そんなとき、たまたまアマゾンで『ハーバードの 人生が変わる東洋哲学』という本に出合いました。

 難解な中国哲学を、現代人が抱える問題に解釈を合わせて解説してくれているとても面白い本でした。(ちなみに、私は「人生を変えたい」とは思っていないのですが・・・笑)

 はしがきの一部を引用させていただくと・・・

――世界とどう向き合うか――他人とどうつき合い、どのように決断をくだし、人生の浮き沈みにどう対処し、どのように他人を感化しようと試み、人生の送り方をどう選ぶか――についての教えは、二〇〇〇年前と変わらず現在も意味を持ちつづけている。むしろ、かつて以上に重要になっている。

 文明・社会は進化、発達しているように思えども、人が思い悩み、自らの中に抱く問いに挑む姿勢はほとんど変わっていません。懊悩煩悶しながら、少しでも楽に生きていきたいと、精神世界を探求して鍛錬しつづけても、生きながらその答えに到達することはできません。ですから、哲学することが生きることそのものなのでしょう。

 「ハーバードの・・・」というタイトルの書籍がいろいろ出ています。つい手にしてしまうのですが、どれもなかなか読み応えのある面白い内容のものが多いです。大学で、こんなに面白い話が聞ける授業があるなら、私もきっと励んで授業に出席したのでは・・・なんて、サボっていた理由・自己弁護です。(笑

 学問という字は、「学んで問う」と書きます。インプットだけでなく、自らの中で問いを抱き、答えに挑むということが学問の姿勢です。若いころに、この機微に気づけばもっと前向きに勉強したのになぁ、、、と反省しても仕方ありません。今の私にできるのは、今の自分が抱く問いに向き合うことです。生きているかぎり、哲学しているのですから。

 
 

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